2008年05月29日

太宰治「斜陽」

しくじった。惚れちゃった。


「今でも、僕をすきなのかい」
 乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
 私は答えなかった。
 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二私はキスされた。性慾のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
 また、二人ならんで歩きながら、
しくじった。惚れちゃった
 とそのひとは言って、笑った。
 けれども、私は笑う事が出来なかった。眉をひそめて、口をすぼめた。
 仕方が無い。
 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
[初出]『新潮』昭22年7〜10月号

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posted by 北田信 at 21:14| 斜陽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

太宰治「桜桃」

いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)


 母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)
 私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言い争いは殴(なぐ)り合いと同じくらいにいつまでも不快な憎しみとして残るので、怒りにふるえながらも笑い、沈黙し、それから、いろいろさまざま考え、ついヤケ酒という事になるのである。
[初出]『世界』昭23年5月号

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posted by 北田信 at 18:42| 桜桃 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月04日

太宰治「パンドラの匣」

虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。


 人間は死に依(よ)って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。鳴沢さんは病気と戦って死んで、そうして美しい潔白の布に包まれ、松の並木に見え隠れしながら坂路を降りて行く今、ご自身の若い魂を、最も厳粛に、最も明確に、最も雄弁に主張して居(お)られる。僕たちはもう決して、鳴沢さんを忘れる事が出来ない。僕は光る白布に向って素直に合掌した。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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posted by 北田信 at 22:09| パンドラの匣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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