2008年11月30日

太宰治「パンドラの匣」

人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。


 それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷(いちる)の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依(よ)っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓(つる)が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2008年08月24日

太宰治「パンドラの匣」

いい夢は、忘れたくない。人生に、何かつながりを持たせたい。


 夢には、こだわらぬつもりだが、しかし、その洗面所の悪夢の翌日、つまり、けさの、未明に、僕はもう一つ夢を見た。そうして、これは、いい夢だ。いい夢は、忘れたくない。人生に、何かつながりを持たせたい。これは、是非とも君にも知らせてあげたい。竹さんの夢だ。竹さんは、いい人だね。けさ、つくづくそう思った。あんな人は、めったにいない。君が竹さんに熱を上げるのも無理はないと思った。君は流石(さすが)に詩人だけあって、勘がいい。眼が高い。偉い。君があまり、竹さんに熱を上げるので、寝込まれたりしても困ると思って、その後、竹さんに就いての御報告を控えめにしていたが、そんな心配は全然不要だという事が、けさ、はっきりわかった。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2008年05月04日

太宰治「パンドラの匣」

虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。


 人間は死に依(よ)って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。鳴沢さんは病気と戦って死んで、そうして美しい潔白の布に包まれ、松の並木に見え隠れしながら坂路を降りて行く今、ご自身の若い魂を、最も厳粛に、最も明確に、最も雄弁に主張して居(お)られる。僕たちはもう決して、鳴沢さんを忘れる事が出来ない。僕は光る白布に向って素直に合掌した。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2007年12月23日

太宰治「パンドラの匣」

船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽(かす)かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。


 しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽(かす)かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣(はこ)という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這(は)い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2007年06月10日

太宰治「パンドラの匣」

ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。


 この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾(よく)と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2007年02月11日

太宰治「パンドラの匣」

夜の明ける直前のまっくらい闇には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。


 洗面所には、青いはだかの電球が一つ灯(とも)っている。のぞいて見ると、絣(かすり)の着物に白いエプロンをかけて、丸くしゃがみ込んで、竹さんが、洗面所の床板を拭(ふ)いていた。手拭(てぬぐい)をあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ていた。振りかえって僕を見て、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどく痩(や)せ細って見えた。道場の人たちは悉(ことごと)く、まだ、しずかに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除をはじめているのであろうか。僕は、うまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの拭き掃除の姿を見ていた。白状するが、僕はこの時、生れてはじめての、おそろしい慾望に懊悩(おうのう)した。夜の明ける直前のまっくらい闇には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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2006年09月12日

太宰治「パンドラの匣」

気のいい人は、必ず買い物が下手なものだ。


 僕は、ごはんを食べながら、つくづくとお膳の隅の、その藤娘と称する二寸ばかりの高さの竹細工の人形を眺(なが)めたが、見れば見るほど、まずい人形だった。どうも趣味がわるい。これは駅の売店で埃(ほこり)をかぶって店(たな)ざらしになっていたしろものに違いない。気のいい人は、必ず買い物が下手なものだが、竹さんも、どうやら、ごたぶんにもれぬほうらしい。ちょっと不良じみたマア坊なんかのほうが、ずっと気のきいた買い物をする。仕方の無いものだ。
[初出]『河北新報』昭20年10月22日〜昭21年1月7日

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