2008年10月05日

太宰治「服装に就いて」

荷物は、少いほどよい。


 旅行でも、出来れば手ぶらで汽車に乗れるように、実にさまざまに工夫するのである。旅行に限らず、人生すべて、たくさんの荷物をぶらさげて歩く事は、陰鬱の基のようにも思われる。荷物は、少いほどよい。生れて三十二年、そろそろ重い荷物ばかりを背負されて来ている私は、この上、何を好んで散歩にまで、やっかいな荷物を持ち運ぶ必要があろう。
[初出]『文芸春秋』昭16年2月号

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posted by 北田信 at 22:54| 服装に就いて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月18日

太宰治「服装に就いて」

衣服が人心に及ぼす影響は恐ろしい。


 その夜、私は酒の店で、とんだ失敗をした。その佳い友人を殴ってしまったのである。罪は、たしかに着物にあった。私は、このごろは何事にも怺(こら)えて笑っている修業をしているのであるからいささかの乱暴も、絶無であったのであるが、その夜は、やってしまった。すべては、この赤い着物のせいであると、私は信じている。衣服が人心に及ぼす影響は恐ろしい。私は、その夜は、非常に卑屈な気持で酒を飲んでいた。鬱々として、楽しまなかった。店の主人にまで、いやしい遠慮をして、片隅のほの暗い場所に坐って酒を飲んでいたのである。ところが、友人のほうは、その夜はどうした事か、ひどく元気で、古今東西の芸術家を片端から罵倒し、勢いあまって店の主人にまで食ってかかった。私は、この主人のおそろしさを知っている。いつか、この店で、見知らぬ青年が、やはりこの友人のように酒に乱れ、他の客に食ってかかった時に、ここの主人は、急に人が変ったような厳粛な顔になり、いまはどんな時であるか、あなたは知らぬか、出て行ってもらいましょう、二度とおいでにならぬように、と宣告したのである。私は主人を、こわい人だと思った。いま、この友人が、こんなに乱れて主人に食ってかかっているが、今にきっと私たち二人、追放の恥辱を嘗(な)めるようになるだろうと、私は、はらはらしていた。いつもの私なら、そんな追放の恥辱など、さらに意に介せず、この友人と共に気焔を挙げるにきまっているのであるが、その夜は、私は自分の奇妙な衣服のために、いじけ切っていたので、ひたすら主人の顔色を伺い、これ、これ、と小声で友人を、たしなめてばかりいたのである。けれども友人の舌鋒(ぜっぽう)は、いよいよ鋭く、周囲の情勢は、ついに追放令の一歩手前まで来ていたのである。この時にあたり、私は窮余の一策として、かの安宅(あたか)の関(せき)の故智(こち)を思い浮べたのである。弁慶、情けの折檻(せっかん)である。私は意を決して、友人の頬をなるべく痛くないように、そうしてなるべく大きい音がするように、ぴしゃん、ぴしゃんと二つ殴って、
「君、しっかりし給え。いつもの君は、こんな工合いでないじゃないか。今夜に限って、どうしたのだ。しっかりし給え。」と主人に聞えるように大きい声で言って、これでまず、追放はまぬかれたと、ほっとしたとたんに、義経は、立ち上って弁慶にかかって来た。
[初出]『文芸春秋』昭16年2月号

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