2009年04月14日

太宰治「思ひ出」

私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。


 私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願つてゐたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
[初出]『海豹』昭8年4〜7月号

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2008年03月18日

太宰治「思ひ出」

そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。


 休暇が終りになると私は悲しくなつた。故郷をあとにし、その小都會へ來て、呉服商の二階で獨りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであつた。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしてゐた。そのときも私は近くの本屋へ走つた。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買へない本が五六册あつて、私はときどき、その前へ何氣なささうに立ち止つては膝をふるはせながらその本の頁を盜み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな醫學じみた記事を讀むためばかりではなかつたのである。その當時私にとつて、どんな本でも休養と慰安であつたからである。
[初出]『海豹』昭8年4〜7月号

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2007年08月16日

太宰治「思ひ出」

洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。


 私と同じ町から來てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意氣さうに見える、あんなに毆られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたひにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。
 私は散りかけてゐる花瓣であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきつとえらくなるものと思つてゐたし、英雄としての名譽をまもつて、たとひ大人の侮りにでも容赦できなかつたのであるから、この落第といふ不名譽も、それだけ致命的であつたのである。その後の私は兢兢として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには眼に見えぬ百人の敵がゐるのだと考へて、少しも油斷をしなかつた。
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2006年11月21日

太宰治「思ひ出」

私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。


 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た廣い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる經驗など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな氣がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覺めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな氣持のときには、私もまた、自分の來しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて滿足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。
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