2007年11月11日

太宰治「鴎」

そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。


 私は醜態の男である。なんの指針をも持っていない様子である。私は波の動くがままに、右にゆらり左にゆらり無力に漂う、あの、「群集」の中の一人に過ぎないのではなかろうか。そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ。汽車は走る。轟々(ごうごう)の音をたてて走る。イマハ山中(ヤマナカ)、イマハ浜(ハマ)、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野(ヒロノ)ハラ、どんどん過ぎて、ああ、過ぎて行く。
[初出]『知性』昭15年1月号

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2007年03月01日

太宰治「鴎」

身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。


 歯が、ぼろぼろに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露路で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺(ろうや)の辻(つじ)音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦(また)、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴(こけ)の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思った。その原稿に対しての、私の期待が大きすぎるのかも知れないが、私は戦線に、私たち丙種のものには、それこそ逆立ちしたって思いつかない全然新らしい感動と思索が在るのではないかと思っているのだ。茫洋とした大きなもの。神を眼のまえに見るほどの永遠の戦慄と感動。私は、それを知らせてもらいたいのだ。大げさな身振りでなくともよい。身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。きっと在るのだ。全然新しいものが、そこに在るのだ。私は、誇りを以て言うが、それは、私の芸術家としての小さな勘でもって、わかっているのだ。
[初出]『知性』昭15年1月号

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2007年01月20日

太宰治「鴎」

確信の在る小さい世界だけを、私は踏み固めて行くより仕方がない。


 私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思った。その原稿に対しての、私の期待が大きすぎるのかも知れないが、私は戦線に、私たち丙種のものには、それこそ逆立(さかだ)ちしたって思いつかない全然新らしい感動と思索が在るのではないかと思っているのだ。茫洋(ぼうよう)とした大きなもの。神を眼のまえに見るほどの永遠の戦慄(せんりつ)と感動。私は、それを知らせてもらいたいのだ。大げさな身振りでなくともよい。身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。きっと在るのだ。全然新しいものが、そこに在るのだ。私は、誇りを以て言うが、それは、私の芸術家としての小さな勘(かん)でもって、わかっているのだ。でも、私には、それを具体的には言えない。私は、戦線を知らないのだから。自己の経験もせぬ生活感情を、あてずっぽうで、まことしやかに書くほど、それほど私は不遜(ふそん)な人間ではない。いや、いや、才能が無いのかも知れぬ。自身、手さぐって得たところのものでなければ、絶対に書けない。確信の在る小さい世界だけを、私は踏み固めて行くより仕方がない。私は、自身の「ぶん」を知っている。戦線のことは、戦線の人に全部を依頼するより他は無いのだ。
[初出]『知性』昭15年1月号

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2006年12月08日

太宰治「鴎」

よいしょと、水たまりを飛び越して、ほっとする。水たまりには秋の空が写って、雲が流れる。


 私はやっぱり阿呆(あほう)みたいに、時流にうとい様子の、謂(い)わば「遊戯文学」を書いている。私は、「ぶん」を知っている。私は、矮小の市民である。時流に対して、なんの号令も、できないのである。さすがにそれが、ときどき侘(わ)びしくふらと家を出て、石を蹴り蹴り路を歩いて、私は、やはり病気なのであろうか。私は小説というものを間違って考えているのであろうか、と思案にくれて、いや、そうで無いと打ち消してみても、さて、自分に自信をつける特筆大書の想念が浮ばぬ。確乎(かっこ)たる言葉が無いのだ。のどまで出かかっているような気がしながら、なんだか、わからぬ。私は漂泊の民である。波のまにまに流れ動いて、そうしていつも孤独である。よいしょと、水たまりを飛び越して、ほっとする。水たまりには秋の空が写って、雲が流れる。なんだか、悲しく、ほっとする。私は、家に引き返す。
[初出]『知性』昭15年1月号

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