2009年12月29日

太宰治「東京八景」

好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。


 銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。
[初出]『文学界』昭16年1月号

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posted by 北田信 at 21:41| 東京八景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

太宰治「女生徒」

肉親って、不思議なもの。他人ならば、遠く離れるとしだいに淡く、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、懐かしい美しいところばかり思い出されるのだから。


  お魚を、お皿に移して、また手を洗っていたら、北海道の夏の臭いがした。おととしの夏休みに、北海道のお姉さんの家へ遊びに行ったときのことを思い出す。苫小牧(とまこまい)のお姉さんの家は、海岸に近いゆえか、始終お魚の臭いがしていた。お姉さんが、あのお家のがらんと広いお台所で、夕方ひとり、白い女らしい手で、上手にお魚をお料理していた様子も、はっきり浮かぶ。私は、あのとき、なぜかお姉さんに甘えたくて、たまらなく焦(こ)がれて、でもお姉さんには、あのころ、もう年(とし)ちゃんも生まれていて、お姉さんは、私のものではなかったのだから、それを思えば、ヒュウと冷いすきま風が感じられて、どうしても、姉さんの細い肩に抱きつくことができなくて、死ぬほど寂しい気持で、じっと、あのほの暗いお台所の隅に立ったまま、気の遠くなるほどお姉さんの白くやさしく動く指先を見つめていたことも、思い出される。過ぎ去ったことは、みんな懐かしい。肉親って、不思議なもの。他人ならば、遠く離れるとしだいに淡く、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、懐かしい美しいところばかり思い出されるのだから。
[初出]『文学界』昭14年4月号

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2009年10月29日

太宰治「冬の花火」

いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう?


 あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう? そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆(あき)れるじゃないの。文化ってどんな事なの? 文(ぶん)のお化(ば)けと書いてあるわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。
[初出]『展望』昭21年6月号

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posted by 北田信 at 22:27| 冬の花火 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月20日

太宰治「新ハムレット」

僕は、このとしになって、やっと、世の中に悪人というものが本当にいるのを発見した。


 僕は、はじめ、ポローニヤスの朗読劇を、娘可愛さのあまり逆上して、王や王妃に、いや味を言うための計略、とばかり思っていたが、ゆうべまた、よく考えてみたら、どうもそればかりでも無いらしい。あの人たちのする事は、一から十まで心理の駈引(かけひ)き、巧妙卑劣の詐欺(さぎ)なのだから、いやになる。僕は、ゆうべ、やっと判(わか)って、判ったら、ぎょっとした。あの人たちは、おそろしい。一つも信用出来ない。此の世の中には、やっぱり悪い人というものがいたのだ。僕は、このとしになって、やっと、世の中に悪人というものが本当にいるのを発見した。手柄(てがら)にもなるまい。あたりまえの発見だ。僕は、よっぽど頭が悪い。おめでたい。いまごろ、やっと、そんな当然の事を発見して、おどろいている始末なのだから、たいしたものだよ。底の知れない、めでたい野郎だ。
[初出]文芸春秋社刊・昭16年7月

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posted by 北田信 at 21:38| 新ハムレット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

太宰治「斜陽」

いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。


 私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。機(おり)にかないて語(かた)る言(ことば)は銀(ぎん)の彫刻物(ほりもの)に金(きん)の林檎(りんご)を嵌(は)めたるが如(ごと)し、という聖書の箴言(しんげん)を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。ゆうべの事は、ゆうべの事。もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を眺め、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。
[初出]『新潮』昭22年7〜10月号

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posted by 北田信 at 23:37| 斜陽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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